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河北総合病院 救急部 
金井 信恭

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金井 信恭
卒後
0年

聖マリアンナ医科大学 

1994年に卒業、地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災など日本の救急医学の歴史にとっても大きな出来事があり、救急医を志し、1995年に自宅に最も近い救命救急センターである東京女子医大に入職しました。

卒後
1年

東京女子医大救命救急センター

来る日も来る日も忙しく、またわからないことだらけで大変でしたが、時間があっという間に過ぎていきました。深夜の緊急手術など今でも鮮明に思い出されます。深夜様式便所に座り研修医マニュアルを呼んでいました。救急搬送された患者さんが少しでも良くなった時は自分の力ではありませんが大変うれしく思いました。研修医1年目終盤で茨城県に出張となり、さまざまな症例を若いうちから経験、勉強させていただくことができ多くの手技を学びました。近年減少傾向である重症多発外傷もこの時期は多く搬送されてきました。

卒後
5年

聖マリアンナ医科大学 放射線医学教室 入局

救急を続けていく上で、問診から治療の流れの中で画像診断に大変興味がわいてきたため、母校である聖マリアンナ医科大学にお世話になり、画像診断とIVRのトレーニングを受けました。最初はまったく読影できませんでしたが、私のようなものでも熱心に御指導くださる多くの指導医に恵まれ大変勉強になりました。日常業務が終わり、学会準備などで日付けが変わることもしばしばでした。放射線医学教室には6年弱在籍し、この時期に救急科専門医、放射線画像診断専門医の資格を得ました。

卒後
11年

相模原協同病院 救急部

放射線医学教室で学んだ知識を生かし、二次救急病院でソロ救急医として勤務しました。地域の基幹病院であるため症例が多く、当直は激務で数多くの症例を経験できました。各科との垣根も低い病院で、ソロ救急医として研修医と一緒に過ごした(戦った?)日々は今でも財産に思います。放射線科の部長が以前の大学病院でお世話になった先生であり、救急医としてIVRにも携わらせていただき、この時期にIVR指導医の資格を得ることができました。

卒後
15年

河北総合病院 救急部 部長

救急医としてさらにステップアップしたく転勤しました。現病院はいわゆる地域の二次救急病院ですが、同じ区内に三次救急指定病院・救命救急センターが存在しないため、一刻を争う救命症例も搬送される場合も多く、軽症から重症まで、小児から超高齢者までなるべく断らない救急医療を実践していくことが地域救急医療に果たす役割と考え、日々診療にあたっています。

現在

これからのプラン

当院の地域救急医療のニーズは非常に高いため、継続して一件一件の救急患者に真摯に向き合い、志を同じとする多くの仲間(救急医を中心に他科医師や研修医)と一人でも多くの患者に手を差し伸べていき(医の原点)、また救急患者の良好な転帰が得られるよう、より良い救急医療ネットワークを構築していきたいと考えています。

未来へ

先生の「キャリアプラン」をお寄せください
内容のアップデートもお待ちしています!

先生がどういった経緯を経て救急医という職業を選ばれたのかを
熱いメッセージとともに寄せていただければと思います。
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さらに、男女問わず結婚や出産、育児という家庭人としての経験と仕事を
どのようにバランスよくこなしてきたのかなどの体験談も併記いただける方は
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公開日:2016年4月25日