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救急医になった理由⑥ 【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】

第1章 こちら救命救急センター

救急医になった理由⑥

日医大の救命救急センターは、一九九三年四月より全国センターの”TheBestofBests”として厚生省第一号の〈高度救命救急センター〉の認定も受けていた。「もう、日医大に行くしかない。どんなつらい思いをしても、國松長官を助けた人たちから救急を教わりたい。自分の外科医としての腕をふるいたい。一年間、日医大で頑張ってだめだったら、青森に帰ってこよう」

妻に自分の正直な気持ちを伝えると、「応援するわよ」と励まされた。

日医大で救急医療を勉強するという目標を掲げると、日々の仕事にも張りあいが出てくるのだった。希望に燃え、その時機を待っていたところに、川国市立医療センター救命救急センターの小関センター長から電話があった。彼は日医大の出身でもある。

「今さん、川回の救命救急センターには外科医が不足しているので来てくれませんか。ここに来れば即戦力になるから」

川国市立医療センターは日医大の関連病院であり、当時の日本救急医学会の研究発表の数では常に一位、二位の成績を修めていた。最新の医療設備、医療システムが備わった救命救急センターで、いきなり外科医という好条件が整っていた。明秀にとっては、これまた魅力的な話であった。妻に相談すると、すでに日医大に行くため青森を離れる覚悟でいたので、賛成してくれた。

一九九八年四月、明秀は通算十五年間の青森での医療活動に別れを告げ、川国市立医療センター救命救急センターに赴任した。新たな飛躍のときを迎えたのである。三十九歳だった。一から救急医療を学ぶつもりでいた明秀にとって意欲をかき立てられる現場だった。

「最初のころはいろいろと意見が食い違ったりしましたが、すべて従いました。自分のやり方が良いこともありましたが、川口ではどうやるのかなという興味もありました。経験を重ねているうちに、いろいろなことがわかってきました」

川回の救命救急センターでは、明秀は比較的軽症の患者でも断らずに引き受け、救急車が三台重なってしまい、処置室はてんやわんやの大騒ぎになることもあり、周囲から批判を浴びた。しかし、明秀はできる限り患者を受け入れるというスタンスを崩さなかったのである。

当直が週に三日という忙しさの中で、外傷の専門書を読む機会が多くなったのもこのころだった。とにかく川回の場合は症例数が多く、きょう勉強したことが来週には患者さんがきてその手術をする。うまくいかないと反省して本を読むと、また次に患者が来る。積み重ねていく経験、そして技術のレベルが確実に上がっていった。

「可能性があるかぎり助けたい」

明秀が重症の救急患者の処置に当たっているときでも患者を引き受けるのは、ほかの医療センターヘ行くと助かる命も助からないかもしれない、ここで助けたい、そんな救急医としての気概があるからだ。患者を断ってしまつては、救命救急の意味がないといっても過言ではない。

野口英世やブラック・ジャックに漠然とあこがれていたにすぎなかった少年がめざす医師像を描きはじめたのは、やはり自治医大卒業後のローテーション教育を受けているときだった。「地域医療に進んで挺身する気概」が養われ、さらに瀕死の救急患者を助けるのだという使命に燃えていったのである。

次回に続きます…

プリベンタブルデスーある救急医の挑戦本連載は、2005年に出版された書籍「プリベンタブルデス~ある救急医の挑戦」のものであり、救急医の魅力を広く伝える本サイトの理念に共感していただいた出版社シービーアール様の御厚意によるものです。
なお、診療内容は取材当時のものであり、10年以上経過した現在の治療とは異なる部分もあるかもしれません。

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書籍連載   2017/08/10