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社会医療法人財団石心会 川崎幸病院 高橋 直樹

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卒後
0年

産業医科大学 医学部医学科 【福岡県】
〜医師としての原点

陸上部に所属し、短距離(特に400m)を専門としていました。自分への妥協は許さない性格で、誰よりも練習を積んだという自負のもと、400メートルで宮崎県代表として国体に出場。休養日にこっそり自主練をして監督に「勝手なことをするな!」と叱られたこともあります。スタートラインに立つ8人の条件はすべて同じ――結果を環境や他人のせいにできない短距離種目の厳しさが、自分を強くしてくれました。

この生き方の原点は、小学4年のとき目の前で祖父が倒れた出来事にあります。血液透析を受けていた祖父が突然意識を失って倒れたとき、自分は何もできずにただ悔し涙を流すしかありませんでした。「目の前の大切な人の命を救える存在になりたい」――そう強く心に決め、医師を志しました。

卒後
1年

宮崎県立宮崎病院 初期研修医 【宮崎県】
〜何もできなかった自分への悔しさ

地元宮崎への貢献と、医師になった姿を両親に見せたいという思いから、宮崎県立宮崎病院を研修先に選びました。医師になって2カ月目、血液内科をローテート中に「先生、何とかしてください!」と看護師に呼ばれ、不整脈アラームが鳴る患者を前に何をどうしていいか分からず、ただ右往左往するしかありませんでした。「先生!何もしないんですか!」という言葉が突き刺さり、何もできなかった自分が情けなくて、本当に悔しい思いをしたのを今でも覚えています。

駆けつけた循環器内科の医師がすぐに来て的確な指示を出す姿を目の当たりにし、自分のふがいなさをどうしても放っておけなくなりました。苦手なものほど克服したくなる――この負けず嫌いの性分が、次の道を決めていきます。

卒後
3年

宮崎県立宮崎病院 循環器内科 【宮崎県】
〜苦手を「好き」に変える逃げない心

自分のできないことや苦手なものは放っておけない性分から、初期研修で痛感した循環器の苦手意識を克服したいと循環器内科を専攻。心臓エコーや心臓カテーテルを500件以上経験する中で、苦手だったはずの循環器がいつしか「好き」に変わっていきました。命に関わる患者さんを劇的に救えるシンプルな爽快感、陸上短距離の「一瞬で勝負が決まる」感覚とも重なり、どんどんのめり込んでいきました。

指導医にも恵まれ「このまま臨床を続けたい」と心が傾いた時期もありましたが、産業医科大学に戻る約束があることを思い出しました。指導医からも「約束を守れない人は、けっして良い医者にはなれないよ」と背中を押され、その言葉通り、産業医科大学に戻る道を選びました。決めたことから逃げない――この姿勢は学生時代から変わりません。

卒後
5年

某大手企業 専属産業医
〜白衣を脱いで学んだ「人を動かす力」

白衣を脱いで企業の中に入ってみると、それまでの臨床ではまず考えなかったことばかりに気づかされました。社員一人ひとりはもちろん、ときには役員クラスへの健康教育を担う中で、相手の立場や心情を踏まえて伝え方を工夫する力が自然と磨かれていきました。病気でない人にどう向き合い、どう行動を変えてもらうか――いわばコーチングに近い技術や、相手の心を動かす伝え方は、この産業医時代に培ったものです。「人を知る」ことの大切さを、医師としてだけでなく一人の人間として実感できた2年間でした。

一方で、NHK「総合診療医ドクターG」に憧れて自費でセミナーに通い詰める日々の中、「自分の知らない医療の世界がこんなにある!」と衝撃を受け、次の挑戦への熱が静かに高まっていきました。

卒後
7年

産業医科大学 救急部 修練指導医 【福岡県】
〜救急医としての出発

ここからが本格的に救急医療にのめり込んだいわばキャリアチェンジになります。 産業医として培った「人を診る」視点を携え、いよいよ救急の世界へ。母校の救急部に入局し、内科出身の自分にとっては未知の領域だった外傷の手術や整形外科の処置にも入らせてもらうなど、診療科の垣根を越えた数多くの症例を経験させてもらいました。目の前の人を救いたいという医師を志した原点に、改めて全力で向き合う1年でした。

卒後
8年

関東労災病院 救急総合診療科 医長 【神奈川県】
〜救急・集中治療・総合診療の”三刀流”

救急と総合内科が統合された関東労災病院の体制に「自分がやりたい2つの科がミックスされている!」と直感し入職。救急外来・集中治療室・病棟総合診療を日替わりにてにこなす”三刀流”の現場で、6年間にわたり救急医療の確かな土台を築きました。総合診療出身の先生方からは目からウロコの学びを次々と得て、自分の医師としての視野が一気に広がっていくのを実感した日々です。

臨床・教育・経営の3つの要職をこなしながら「忙しい」のひと言も口にしない上司の姿は、今も自分が目指す医師像そのもの。産業医としての経験を経たからこそ、この三刀流の現場で得た学びをより深く吸収できたと感じています。

卒後
10年

日本救急医学会救急科専門医、
日本内科学会総合内科専門医/指導医、社会医学系専門医を取得
〜パパとしての価値観の変化

救急と総合内科の専門医試験を同時期に受験しました。どうせやるなら一度にまとめてという覚悟でQBやYNを見直しながら頑張りました。

臨床の現場で積み上げてきた経験と知識が、形として裏付けられた1年でした。とくに「指導医」という肩書きは、自分自身が学ぶ立場から、後進に伝える立場へとシフトしていく節目になりました。

そしてこの年、もうひとつ大きな出来事がありました。父親になったのです。守るべき命がまた一つ増えたことで、目の前の患者さんの「大切な人」を想う気持ちが、これまで以上にリアルなものとして自分の中に根を下ろした気がします。産業医としての経験、循環器内科での研鑽、そして救急・総合診療の三刀流――それぞれの専門医資格を取得できたのは、遠回りに見えた道のりすべてが今につながっている証だと感じています。

卒後
14年

社会医療法人財団石心会 川崎幸病院
救急科部長/救急センター長 【神奈川県】
〜「日本一働きやすいER」をつくる

川崎幸病院の現場に足を運んだとき、「患者を決して断らない」という心意気には本物の凄みがあると感じました。院長から「当院に来てERを再構築しないか?」と声をかけていただき、迷わず転職を決意しました。部長になった今も、当然、診療の最前線に立ち続けています。マネジメントだけして現場を語る部長にはなりたくない――それが自分のこだわりです。

私たちが目指しているのは、「川崎市全体を一つの病院、一つのプラットフォームと捉える」という発想です。一つの病院が地域のハブとなって救急患者を受け入れ、適切な処置と診断で状態を安定させたあと、病院ごとの強みやマンパワーに見合った施設へ転院搬送する。この適正配置の仕組みを地域全体で築ければ、特定の病院に負担が集中することなく、川崎市全体がもっと円滑に回るはずです。一医師、一病院の力には限りがありますが、地域そのものをデザインしていけるのもまた、救急医にしかできない仕事だと思っています。

救急医の可能性は無限大
〜最高の働きやすさこそ、長続きする

全身を診ることができ、内科・外科問わず全範囲をカバーできる。目の前の患者さん一人を救うだけでなく、病院を支え、地域丸ごとを救うことすらできる――そんな診療科は、救急医以外にありません。 最高の働きやすさを実現できれば、家庭ではヒーローに、職場では最高に輝ける存在になれます。 楽しいからこそ、長く続けられる。 救急医の可能性は、無限大です。 ぜひ、一緒に最高のERを創っていきましょう!!

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