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救急科礼賛

医師免許を取得して37年になります。昭和54年に卒業した私は、迷わず外科に入局しました。医師を目指した時から外科医になるつもりだったので、科を選ぶのに悩んだことはありません。

当時は現在の研修医制度とは違って、大学の医局に入局するのが一般的でした。私は地元の大学に戻り、胸部外科を専攻しました。研究者になるつもりは無く、卒後9年目に所謂関連病院である長野赤十字病院に就職しました。そこで呼吸器外科医として20年間、充実した日々を送りました。

しかし50歳を過ぎると、視力の衰えとともに気力や体力も衰えてきました。かつては鼻歌交じりで出来たことが次第に困難になり、自分にしか分からない戸惑いを感じるようになりました。52歳の時に外科医に見切りをつけ、村の診療所勤務を経験しました。

img-bardこれまで外科しか知らない者が、突然ありとあらゆる疾患や日本の医療体制の難問に直面し、カルチャーショックを受けました。そして救急車で患者を送る立場よりも、迎える立場でいた過去が貴重な時間だったことを知りました。

1年後に、院長(当時副院長)の取り計らいで救命救急センターに赴任しました。自ら「晩期研修医」と名付け、最初の1年でJATECやICLS等の講習、救急医療に関するあらゆるセミナーなどを受講しました。

日々の救急患者の診療は新鮮で、砂漠に水が染み込むような感じでした。この感覚は、外科医に成りたての頃と似た感覚でした。ひとつひとつ出来る手術が増えるのと同じように、対応出来る病態が増えていきました。

外科医の最後の頃は、扱う疾患は肺癌と縦隔腫瘍および気胸くらいでしたが、救急科では頭のてっぺんから足の先まで診る必要がありました。9年前までは狭く深く部分的にはゼロだった知識が、現在はゼロの部分は無くなり全体に底上げされました。救急科に転向したことにより、4年後の定年退職の際には、18歳から学び続けてきた医学を自分の中で完結できるものと考えています。

外科医の時代には一人医長だった事もあり、患者の急変や死期が近づいた場合の対応には休みは有りませんでした。その経験を踏まえて、救急科ではチーム医療体制にしました。夜間や休日は当番の者が対応することにして、オンとオフの区別をしっかりつけることが出来ました。予定の休暇をとって外科医時代には出来なかった登山を再開しました。涸沢カールの紅葉はこの世のものとは思えない美しさです。槍ヶ岳の山頂には3回足を踏み入れることが出来ました。

以上が外科医を28年、救急医を8年経験した現在の心境です。

外科医の頃は自分自身の満足感はありましたが、家族に強いた負担は大きかったと思います。救急医に転向した時には既に子供は成人しており妻と二人の生活ですが、ゆとりのある人生とは何かそして幸せとは何かを考え直しました。

医療とは患者に人生のチャンスを与えることであり、救急科はそれに直結した仕事だと思っています。

救急医のすゝめ   2016/05/09

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