順天堂大学 大学院医学研究科 救急災害医学講座 大野 雄康
0年
福島県立医科大学 医学部 医学科 【福島県】
祖父母も、そして父も医師であったため、医学は小さいときからとても身近な存在でした。何の疑いも抱かず地元の医科大学に進学した私は、漠然と、「親が専門としていた精神科医になるのかな」と思っていました。しかし医学部5年生の臨床実習で救急科を回った時、この思いは「がらり」と変わりました。そこには、様々な病態の救急患者に対応できるgeneralistがおり、蘇生の指揮をとるconductorがいました。救急外来には全身状態不良な患者を安定化させていく、dynamismが満ちていました。私はローテートのわずか7日の間に、「救急」に、すっかり魅入られてしまいました。
1年
福島県立医科大学附属病院 初期研修医 【福島県】
学生の時に感じた直感は、どうやら正しかったようです。救急科ローテート中、私は周囲から「生き生きしているね」と良く言われました。これは他の診療科にいたときは、聞いたことがないワードです。重症患者を初療室でstabilizeし、集中治療室でintensive careを行い、そして社会復帰させる、一連のプロセスは相変わらず輝いて見えていて、私はそのプロセスに関与できることに、やりがいと喜びを感じました。どうやら、行く道が決まったようです。
3年
福島県立医科大学附属病院 救急科 専攻医 【福島県】
母校の救命救急センターで、こうして私は救急医としてのキャリアをスタートしました。救急の現場に身をうずめ、気管挿管、中心静脈カテーテル挿入、観血的動脈ライン挿入などの手技の基盤を確立するとともに、救急医としての立ち振る舞い、考え方、professionalismを身に染み込ませていきました。このころの私は、救急医として全力疾走する諸先輩方の背中を追いかけるのに必死でした。
6年
救急専門医取得 一般財団法人太田綜合病院付属 太田西ノ内病院 麻酔科 医員 【福島県】
先輩方の背中を全力で追いかけ続け、私は救急専門医となりました。「自分の可能性を、さらに広げたい」そう思った私は、太田西ノ内病院麻酔科に異動しました。「侵襲に晒された生体を守り、有害な生体反応を制御すること」、「気道、呼吸、循環、意識、体温の管理を通し、患者の全身を診ること」「リスクを評価し、それに対して最大限準備する。起きてしまった想定外の事態に、医学的知識を使って最善の判断を下していく」―救急と麻酔には共通項が多いのです。「麻酔科の立場から、救急の全景を見渡し、かつ各病態を解像度高く診る」ことを目標に、私は救急科/麻酔科ダブルボードのあゆみを始めました。
8年
麻酔科専門医取得
太田西ノ内病院では、麻酔科医として膵頭十二指腸切除術、開胸開腹食道全摘出術、腹部大動脈破裂などの多彩な手術症例を担当させていただきました。臨床麻酔や集中治療に没頭し、ヒトが過大な侵襲にさらされた時に、どのような生体反応がおきるのか、どのような臨床経過をたどるのか、そして、様々な生体侵襲を制御するには、どのような治療手段を使うべきか、自らの経験を通し理解を深めていきました。麻酔専門医を取得したこの頃には「生体侵襲とは何か」、肌感覚で分かるようになっていました。
9年
福島県立医科大学医学部 病態制御薬理医学講座 大学院生、学位取得 【福島県】
しかし、生体侵襲は制御できても、その結果として発症する、「重度の骨格筋萎縮」だけは、どうしても制御することができませんでした。自分が見ていた現象は、post intensive care syndrome (PICS) という病態であると知り、その治療法をPubMed等で渉猟しました。しかし、最新の論文にもPICS の治療法はおろか,その発生機序についても十分な記載がなかったのです。
「分かっていないのであれば, PICS のメカニズムを、研究を通して自分が解き明かしたい」この思いは、私の中で強くなってきました。どうやら次のステージに行くときが来たようです。私は喉頭鏡をマイクロピペットに持ち替え、母校の病態制御薬理医学講座で、PICS機序の解明のため、基礎研究を開始しました。
ウエスタンブロット、RT-qPCR、ELISA、そしてマウスや培養細胞のハンドリング。大学病院で救命救急医として働く傍ら,毎日研究室に通い,当直入りや明け,休日に実験する濃密な日々が過ぎていきました。そして、4年がたとうとしていた時、ついに「その日」がやってきました。私はToll-like receptor 4/NF-κB 経路を通した骨格筋萎縮機序を見出し、学位を得たのです。当初の目標となる成果を発信することができ、心地よい充実感が私を満たしていきました。
12年
神戸大学 大学院外科系講座 災害・救急医学分野 医員、助教、病院講師 【兵庫県】
「自らの強みを生かし、最大限に他者に貢献できることを考えなさい」 当時読んでいた本に、形を変えて繰り返しこの言葉は現れていました。「運命」と呼ばれるものが、意図的に、この言葉を選んで私に届けていたのかもしれません。「私の強みはなんだろうか?」「私にしかできないことは何だろうか?」当時の私は何度も自問し、その答えは「Physician-scientistとして、救急の臨床と基礎研究を橋渡しする」こと「自らの研究活動を通して今日救えない目の前の患者を、明日救う」ことであると思うようになりました。「せっかくならば、この可能性を最大化してくれる場所で、自分を試したい」―そう思った私は、当時PICS研究の中心地であった、神戸大学に異動しました。
新天地に移った私は、臨床に、研究に、そして教育に、人生をうずめていきました。「どうせやるなら全力で」と思い、その時の自分にできることを、ただひたすら積み重ねる日々が過ぎていきました。それは、ある意味単調な毎日でしたが、気付けば神戸に移った数年で、それまでの10数年で書いてきた2倍近い論文を出版していました。このような活動が認められ、いくつかの学会から学会賞を、神戸大学からは最高賞である「優秀若手研究者賞」をいただきました。神戸大学で出会った新しい仲間たちと、「人生をかけて、大切な何かに打ち込んだ経験」は、私の宝です。
19年
順天堂大学 大学院医学研究科 救急・災害医学講座 准教授 【東京都】
「運命」というものは、必要あれば、たとえどこにいてもあなたを探してやってきます。しかも、少しも早すぎず、少しも遅すぎない時に。
この頃私は、「私が経験してきたことを、次の世代に伝えていきたい」と思っていました。―おさそいの言葉は、そのようなタイミングで、思いがけないところから私のもとにやってきました。” Chance favors the prepared mind.” ルイ・パスツールの170年前の言葉は今も真のようです。神戸大学で全力疾走した日々が、知らず知らずのうちに私をpreparedな状態にし、次のステージに押し上げてくれました。私は今、こうして東京の順天堂大学で、素晴らしい仲間たちと救急を下支えしています。そしてPhysician-scientistの一人として奮闘しています。
19年
未来へ
医師を目指そうと思った時、私は父親の背中を追いかけ、そして専攻医であったとき、私は救急の先輩たちの後ろ姿を必死に追いました。しかし、たどり着いた場所は、結果として父や、先輩たちとは違っていました。
それでも「自分の強みを、病に苦しむ患者のために役に立てたい」と思う、「根」の部分は同じだと思います。ただ、その表現形が違っていたのです。私の父にとって、それは開業医として地元の患者様に尽くすことであり、私にとって、それは「Physician-scientistとして、研究を通し今日救えない目の前の患者を、明日救うこと」であったのです。
―皆様が、「自分の選びとった道を、自信をもって堂々と歩む」ことを願い、この辺で筆を置こうと思います。
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