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東京都立小児総合医療センター 伊原 崇晃

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卒後
0年

関西医科大学医学部医学科 卒業

学生時代は全く勉強をせず、ラグビーばかりの毎日でした。

卒後
1年

野崎徳洲会病院 初期研修医

ブラックジャックに憧れて医師になったというステレオタイプな私は外科志望でした。ところが、救急部に熱血漢の指導医がいて、その先生の指導がとても楽しみだったためERに入り浸るようになりました。また、米国帰りの内科医に「病歴や身体所見をきちんととる」という基本を叩き込まれました。このことは今でも自分の原点になっています。専門を選ぶ際「救急医がいなければさすがのブラックジャックもメスを振るえないのではないか、そこまで繋ぐということが一番大事なのではないか」と思うようになり、救急の道を志すことにしました。

卒後
3年

神戸市立医療センター中央市民病院 救命救急科専攻医

1次から3次まで受け入れる神戸市立医療センター中央市民病院で後期研修をしました。
東日本大震災で被災地に行った際には「画像診断装置などの医療資源が限られる中でも、病歴と身体所見をしっかりとれば患者を診ることが出来る」ということを再認識し、ER医を続けていく上で強い武器になると実感しました。

それでも、子どもだけはやはり苦手でした。そんな折、とある勉強会で米国小児救急専門医である井上信明先生と出会い、「小児救急」という分野を知りました。小児への苦手意識を克服することができれば、と都立小児総合医療センターで2ヶ月の院外研修をさせていただきました。「小児科医が行う救急医療でも、救急医が行う小児医療でもない」このような分野があることが新鮮で、自分の世界が確実に広がったことを実感しました。

卒後
7年

神戸市立医療センター中央市民病院 医員

救急科専門医となり、院内の初期研修医が選ぶベストティーチャー賞に選出されるという誉れもありました。
一番大きな変化としては結婚し、第一子が誕生したことです。その時「この子が急病になったら誰が診るのだろう」という疑問がふと浮かびました。
それまでは「小児救急は最低限できればいいな」で済んでいたことが、日を追うごとに「自分がやらなくては」へと変化していきました。

卒後
9年

東京都立小児総合医療センター救命救急科 医員

小児救急を一から勉強するつもりで、都立小児へと異動しました。ACSやPEといった疾患から遠ざかることには寂しさもありましたが、それ以上に小児救急で子どもを救う喜びと使命感に満たされました。

ずっとこだわってきた病歴と身体所見は、安易な放射線検査を避けたい小児では非常に有用であるということを実感しています。小児では比較的稀な急性膵炎を腹部所見だけで強く疑い、治療につなげることができた時は救急医として喜びを感じました。
ERだけでなく、総合診療やPICU, NICUも経験し、小児科領域のエッセンスを学んだことで、救急指導医としての幅が広がったと思います。

卒後
11年

現在 これからのプラン

「小児救急なんてカゼみたいな軽症ばっかりだ」と思っていた私が感銘を受けた言葉があります。

“私たちは、1人の重篤な子どもを救命するために100人の軽症の子どもを喜んで診療します。(Dr. Anna Jarvis・元トロント小児病院救急部部長)”

このような小児救急の理想像を追求しながら、同じように理想を追いかけたい仲間を増やしていきたいです。その結果、すべての子ども達が、時間や主訴を問わず、良質な医療を受けられる世の中になることを願っています。

未来へ

先生の「キャリアプラン」をお寄せください
内容のアップデートもお待ちしています!

先生がどういった経緯を経て救急医という職業を選ばれたのかを
熱いメッセージとともに寄せていただければと思います。
こちらの「キャリアプラン」アンケートフォームよりご投稿ください。

さらに、男女問わず結婚や出産、育児という家庭人としての経験と仕事を
どのようにバランスよくこなしてきたのかなどの体験談も併記いただける方は
こちらの「キャリアプラン+ライフイベント」アンケートフォームよりご投稿ください。

また、内容の修正などをご希望の際はこちらのお問い合わせフォームよりご連絡ください。

先生方の熱き想い、お待ちしております!

公開日:2016年6月20日 

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