食道破裂、10%の救命率④【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
第2章 救命、そして再生への道
食道破裂、10%の救命率④
「この人が前に話した佐藤さんという患者さんで、一年前に手術しました。食道破裂は八センチ、あなたは四センチなんですよ。だから、大丈夫です。佐藤さんはいまこんなに元気になって仕事をしています」
明秀の真意が佐藤さんに伝わった。手術後、一九気がなく、自信をなくしていたという患者に、同じ病気を経験した佐藤さんを会わせたかったのである。あらためて命が救われたことを佐藤さんは実感した。自分が元気に職場復帰していることが、この患者さんにも勇気を与えることができるのだ。そう思うと同時に佐藤さんはワイシャツを脱いでいた。胸から踏下まで続く傷を、誇らしげにその患者に見せて励ましの言葉を贈った。
「私の傷はあなたのよりも長いでしょう。でも、一九気にやっていますょ。今先生にすべておまかせなさい。必ずうまくいきますから、心配することはないのですよ」
佐藤さんの言葉が励みになったのか、患者は精神状態が安定して前向きになり、穏やかな表情に変わっていったという。
さらに二年目の定期検診のとき、今度は女性の食道破裂の患者と面会して励ました。
「自分でも人の役に立つことがあるのならば、いつでも馳せ参じます」
一時は生死をさまよい、絶望の淵に立たされた佐藤さんだが、他者の「命」の重みを自分の「命」の重みとして感じていたのだった。二〇〇四年三月、私は明秀とともに救命救急センターの談話室で佐藤さんに会った。かつて重症だった患者とその主治医が当時のことを振り返る。
「あとから成功率一〇%の重症だったと聞いて、もしほかの病院に行っていたら私の命はなかったと思っています。手術が行われたときから、私の葬儀の準備が進められていたんです。家族も覚悟していました」
「手術が終わっても、成功とはいえませんからね。不必要な薬を使ったり、輸血をして合併症でおかしくなったりするのは避けようと思いました。最短距離イコール最大効果をねらつて治療してきて、それが思い通りにできました。これで大文夫だ、と成功宣言をしたときは非常にうれしかったです」
なるほど、手術の成功宣言……。ふと、テレビドラマなどで手術を終えた外科医かなにかが患者の家族に向かって「手術は成功しました」という台詞を思い出し、あれは患者や家族を安心させるためなのか、あるいは医師たちが成功したと確信したのか。よく考えてみるとわからない。しかし、明秀が言った「手術が終わっても、成功とはいえない」の言葉はとても説得力をもつものだった。
「今先生がICUからレントゲン室へ移動するときに、ベッドを押しながら左コースと右コースのどちらにしますか、と私に聞いてきたときはびっくりしましたよ。そんなおしゃれなこというドクターはいませんよ。ひと言ひと言に、今先生の人となりが表れています」
佐藤さんはメガネをはずし、頬をつたう一涙をハンカチでぬぐった。
「ほんとによかったですね、佐藤さん」
「私は仕事一筋で、あまり家庭のことを省みず、自分本意な人間でした。でも、先生をはじめとするスタッフのみなさんに助けていただき、退院してからは家族に目が向くようになりました」
退院後、十力月は酒も煙草もやめていたが、やはリストレスなどがあったときは、その両方が解消に役立っているらしく、現在はどちらも元に戻ってしまったという佐藤さん。元気になったからこそ、好きな酒も煙草も楽しめるようになってよかった、という言い方もできるのだが、明秀は笑いながらこう言った。
「佐藤さん、今度は肺がんや肝機能障害になっても、それは私にはどうすることもできないですからね」
私は佐藤さんから〈救命の証〉でもある、胸から下腹までの見事な縫合手術の跡を見せられた。生身に残った傷跡の向こう側には、食道破裂と闘った明秀とスタッフたちが織りなした救命のドラマが広がる。まさにその傷跡は〈再生のしるし〉となったのである。
「葬式の準備が進められていたというから、もしかしたら私はこの世にはいなかったかもしれません。でも、今先生はじめみなさんのおかげ、人の縁によって〈生かされている自分〉がここにいます。命が助かったことで、初めての孫も見ることができました。娘の小学校の入学式にも参加することができました。人への感謝、人との出会いを大切に生きていこうと思っています」
「佐藤さんは退院する直前、まるで仏様のような顔になりました。看護師がいうには、臨死体験、死ぬような思いをしたその瞬間に顔が変わったのではないかと。患者と主治医の関係というのは親子や恋人以上の親密な関係になっていく。別の世界に行くような、神様の世界に行った二人という感じです。普通はそこに至る前に治ったり、あるいは死んだりしますからね」
明秀の印象的な言葉である。佐藤さんは、葬儀の準備さえ進められていたのだから、もしかしたら助からなかったのかもしれない。しかし、三途の川を渡らずにすんだのである。
瀕死の状態で救命救急センターに運ばれてくる患者。応急処置に始まって、検査、緊急手術、集中治療、術後検査、一般病棟へ移動、そして、退院。一人の患者を迎えて送り出すまでの緊張する日々。医師と患者の運命的な出会いが、見事に結実するのである。
次回に続きます…
本連載は、2005年に出版された書籍「プリベンタブルデス~ある救急医の挑戦」のものであり、救急医の魅力を広く伝える本サイトの理念に共感していただいた出版社シービーアール様の御厚意によるものです。 なお、診療内容は取材当時のものであり、10年以上経過した現在の治療とは異なる部分もあるかもしれません。
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