食道破裂、10%の救命率③【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
第2章 救命、そして再生への道
食道破裂、10%の救命率③
佐藤さんは手術後の四日間の記憶がまったくなかったという。痛み止めのモルヒネの多量投与により、九月五日に幻覚症状が現れる。
「この病院はぼくを殺すのか」
「母ちゃん、隣りの人が七輪でごはん炊いているよ」
「月曜日には新聞社でプレゼンの企画があるから行かなくちゃ」
「きみ、しっかり頼むよ」
キーボードを打っているつもりで、天丼を見上げながら指を動かしていた。あるときは、同年齢の看護師長に向かって「ぼくよりも一回りも上なんですね」というせりふも飛び出た。
幻覚症状が治まると、今度は落ち込みが激しくなった。目をつぶると真っ赤な世界がひろがり、死ぬというのはこういうことかな、このまま眠ってしまうと目を覚まさないのではないかと不安になる。「死ぬ」とか「だめだ」とか、自分でも泣きたくなるような言葉しか出てこなかった。
手術から十日が経った。佐藤さんの身体は少しずつだが、回復を見せていた。
九月六日、レントゲン検査のため、四階のHigh Care Unit(HCU=重症患者病棟)から一階のレントゲン室までベッドで移動する。救命救急センターのICUから無事に退室した患者は、四階の後方病棟にあるHCUに数日間入る。ここではさらに循環、呼吸、感染症、精神状態の安定を確認後に一般病室へ出るシステムなのである。
エレベーターで一階に降りたとき、明秀はベッドの佐藤さんに大きな声でこう聞いた。
「レントゲン室までは左コースと右コースがあります。左コースは緑が見えます。右コースはロビーの患者さんが見えます。佐藤さん、どちらのコースにしますか?」
初めてICUとHCUから〈外の世界〉へ出た佐藤さんには明秀のひと言ひと言がうれしく、涙が止まらなかった。
「左コースでお願いします」
「了解。左コースですね」
明秀はまるで電車ごっこに興じる子どものように、ベツドを押して歩いた。ガラス張りの天井から陽光がふりそそぎ、ロビーの緑の植物が佐藤さんの目に映った。ああ、下界に出られた、自分は生きているんだと感動した。
「前向きに治そう。前向きに生きていこう」とかたく心に決めた。
翌日、佐藤さんはHCUから一般病室に移った。ある日のこと、明秀は佐藤さんの手をにぎってこう言った。
「佐藤さん、新聞を読むことです。社会面でもスポーツ面でもなんでもいいから、頭に入れてください。新聞を読むと頭がこの世に戻ってきますよ。きょう何があったのか、きょう何を思ったのか、何でもいいから記憶にとどめておくようにして、毎日続けてください」
明秀は、一日も早く佐藤さんに社会復帰させたいと思っていた。佐藤さんもそのとおりにした。生きているという実感、早く復帰したいというプラス志向、そして感謝の念がわいていた。
それからは、点滴を抜いたり、普通の食事を始めたり、X線検査、血液検査、造影剤検査の結果も良好で、ICuでの苦しい日々が嘘のように回復は順調に進んだ。
「うまくいった!」
九月十六日、明秀はここで初めて手術の成功宣言をした。そして、九月二十日に佐藤さんはめでたく退院した。発症二十五日目という、この病気にしては短い治療期間であった。
次回に続きます…
本連載は、2005年に出版された書籍「プリベンタブルデス~ある救急医の挑戦」のものであり、救急医の魅力を広く伝える本サイトの理念に共感していただいた出版社シービーアール様の御厚意によるものです。 なお、診療内容は取材当時のものであり、10年以上経過した現在の治療とは異なる部分もあるかもしれません。
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