救急現場、密着ドキュメント!② 【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
第1章 こちら救命救急センター
救急現場、密着ドキュメント!②
警察で事情聴取された女の子の父親が処置室にやってきて、ストレッチャー上の痛ましい娘の姿を心配そうに見た。
「お子さんはたいへん重篤な状態です。いま全力で治療にあたっていますが、まったく意識がないため、助かったとしても脳に障害が残るかもしれません」
娘の病態について説明を受けた父親はうなずき、「よろしくお願いします」と頭を下げ処置室を出ていった。
窒息により脳に障害が出るのは低酸素による影響である。この低酸素脳症を治療するうえで最上の方法は、いまだ脳が致死的なダメージを受けないうちに、血管および神経を保護してしまうことだ。この脳保護療法の一つに脳低温療法がある。脳の温度を全身麻酔下で三三度に低下させると、エネルギー代謝低下、細胞障害物質放出抑制となり、脳細胞破壊に大きなブレーキがかかるのだ。この治療中に、脳の血流が回復すれば、脳の虚血による細胞死を免れることができる。しかし、治療には大きな危険が伴う。血小板減少、カリウム低下をきたし、免疫能低下による感染、不整脈や心拍出量低下が起こる。
女の子には、頸の静脈から心臓までスワンガンツ・カテーテルが入れられた。これは心臓の一回の拍出量を測定する大さニミリほどの道具だ。体温を下げることにより心臓の働きが低下するので、このスワンガンツ・カテーテルで心臓の拍出量を測定して、低下すると昇圧剤の点滴を開始、また血液温の持続測定ができるのである。
午後八時になった。私は一度現場を引き上げ、四階に上がって、今明秀が戻ってくるのを待っていた。さきほどの女の子がICUに運ばれてきていないかどうか看護師に尋ねたが、まだ治療中だという。意識は回復したのだろうか。容態が気になった。救命救急の資料に目を通したり、それまで取材しておいた看護師や患者の話が録音されたカセットテープを聞いたりしていると九時近くになった。女の子が搬送されてから、三時間半が経過していた。なんとか、命を取り留めてほしい。真っ暗な窓の外を見ていると、廊下から明秀が声をかけてきた。
「いま、治療が終わってICUに上がってきたところです」
ICUに案内された。さきほどの女の子がストレッチャーからベッドに移され、小さな身体には心電図、酸素吸入、人工呼吸器など、何本もの管がついていた。やはり、意識の回復はむずかしいという。
「いまのうちに食事をとっておこう」
午後九時半。空腹であることをすっかり忘れていた。明秀にしたがって医務室へ。すでに小野寺医師と中医師が注文してくれていた鰻の蒲焼き弁当で遅い夕食となった。
明秀の携帯が鳴った。今度はスリランカ人の三十五歳の妊婦が下腹部痛とめまいのため搬送されてきたという。
午後十時四十分。大急ぎで非常階段を駆け降りて一階の処置室に向かった。明秀が診療してから産婦人科医にバトンタッチ。患者は流産しており、その処置に当たるのだ。
それからほどなく心肺機能停止の四十九歳の男性が搬送されてきた。妻の話によると、自分が風呂から上がって寝室に入ると、夫は身体を折り曲げるようにして倒れていたという。心筋梗塞か。既往歴は胃潰瘍。
心肺機能停止とは、心臓機能と呼吸器である肺の機能が停止した状態である。この場合の蘇生率は倒れて四分で五〇%、五分後には二五%。たとえば、自宅で倒れたときに連絡した救急車が最速五分で到着し、搬送先の救命センターに五分で到着したとしても(実際にはもっと時間がかかるかもしれないが)、蘇生率はo%になってしまう。しかし、救急車が現場に到着するまでに人工呼吸や心臓マッサージなど心肺蘇生術を身に付けた家族がその場で実践し、さらに救急隊員が同じように応急処置を続けながら救命センターに搬送していれば、救命率は高くなり、また蘇生する場合もある。最近では、心肺蘇生のための標準化法(BLS、ACLS、後述)を身につけた救急救命士や看護師たちが生まれており、また、一定の基準を満たせば救急救命士の気管挿管なども許されるようになった。
次回に続きます…
本連載は、2005年に出版された書籍「プリベンタブルデス~ある救急医の挑戦」のものであり、救急医の魅力を広く伝える本サイトの理念に共感していただいた出版社シービーアール様の御厚意によるものです。
なお、診療内容は取材当時のものであり、10年以上経過した現在の治療とは異なる部分もあるかもしれません。
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