東京慈恵会医科大学 救急医学講座 光永 敏哉
0年
東京慈恵会医科大学
元々、小児の終末期医療に携わる医師の話をお聞きし、自分もそのように人の人生に寄り添う仕事がしたいと思い医学部へ進学しました。学生時代は様々な分野に興味があり、個人で都市部の病院だけでなく地方の基幹病院に見学に行ったり、友人の誘いでアメリカのUCLAの脳神経外科のラボを見学に行ったりしていました。ドラマの「救命病棟24時」が大好きでしたが、学生時代の自分にはこんな過酷な現場で働けないだろうなという思いがあり、救急への道は頭の片隅にしかありませんでした。当時は、小児科・脳神経外科・腎臓内科・血液腫瘍内科への道を考えていました。
1〜2年
東京慈恵会医科大学附属病院 初期臨床研修医
研修医最初の3ヶ月が救急科でのローテートでした。右も左も分からない中、とにかくよく走りよく考えました。多い日には救急車が一晩で20台以上も来る日があり、軽症から重症まで、内因性の疾患から外傷まで幅広く診療するER型救急医療に非常に興味を持ちました。そんな中、研修医1年目の終わりに東日本大震災を経験しました。黒い津波に町が飲み込まれている姿を見て、一番困難な状況の中で人々の安心と希望の礎になるような仕事をしたいと思い、救急への道を志願することとなりました。
2年
結婚
結婚
3年
東京慈恵会医科大学 救急医学講座 後期研修医
都内の救命センターを持つ他大学の救急医学講座か、出身大学の救急医学講座に入局するか非常に迷いましたが、当時の主任教授のお人柄と強い勧めもあり、母校の救急医学講座に入局しました。新橋にある本院救急部(ER型)と柏にある柏病院救命センター、さらに本院内視鏡部で経験を積みました。
4年
第一子誕生
第一子
誕生
6年
東京慈恵会医科大学附属病院 救急部 診療医員
様々な救急を見る中で、診断学に非常に興味を持ちました。そのため、3次救急症例も診られるER医を目指すべく、本院救急部をベースに勤務しました。自分で収集したデータを解析し、米国の英文誌に論文を投稿することもできました。また、以前より憧れだった海外への留学に向けて本格的に考えるようになりました。私は最新の研究だけではなく、文化的な交流をベースに日本という環境の中で形作った自分自身の価値観の殻を客観的に見たいと思い、ヨーロッパ圏への留学に興味を持ちました。
6年
救急医学会専門医取得
7年
Hôpital Universitaire Pitié-Salpêtrière救急部・外科系蘇生ユニット/SAMU de Paris臨床留学
本院救急部は2020年のオリンピック会場や選手村から非常に近いこともあり、マスギャザリング災害の危険性を非常に感じていました。そんな中、2015年11月にパリで大規模テロ災害が発生しました。その際の救急活動が「Lancet」に掲載されているのを見て、メディカルコントロールが発達しているフランスへの臨床留学を志しました。幸運にも、当院の小児科にフランスから小児科医が留学しており、彼女を通してパリ市内の救急病院の部長の連絡先を教えてもらいました。その中から7箇所へ履歴書と動機書を英文と仏文で送付し、結果的にHôpital Universitaire Pitié-Salpêtrière救急部教授のDr.Pierre HausfaterよりObservational Fellowshipとし受け入れてもらいました。彼がその他の外科系蘇生ユニットやメディカルコントロールの主体であるSAMU de Parisでの研修も調整してくださいました。また、SAMUの医師の計らいで、パリ近郊で定期的に開催される「大規模テロ対策訓練」にも参加させていただくことができ、そのリアリティと規模に大変驚きました。現場では英語7割フランス語3割と意外に英語が使えました。留学期間は比較的自分の時間を取ることができ、妻に任せきりだった子育てにも参加し、公私ともに充実した日々を過ごすことができました。
8〜10年
東京慈恵会医科大学附属柏病院
救命救急センター 診療医員
フランスから帰国後、千葉県柏市にある附属病院救命救急センターを中心に勤務しました。さらに、救急医を中心にしたsemi-closed ICUシステムの構築に参画しました。この期間に集中治療に関するスキルを整理することができました。
9〜11年
千葉大学大学院先進予防医学共同専攻
千葉大学予防医学センターの先生とのご縁をいただき、卒後9年目より千葉大学大学院先進予防医学共同専攻にて社会人大学院生として、平日は慈恵医大附属柏病院救命救急センターで勤務しながら、週末を中心に研究活動に従事しました。柏病院救命救急センターのデータを使用しながら、Early warning scoreに関する高齢救急患者の予後予測に関する論文を英文誌へ投稿することができ、3年間での早期卒業とPhD取得を達成できました。
9年
第二子誕生
第二子
誕生
11〜14年
医療法人社団永生会南多摩病院
総合内科・救急科 医長
コロナパンデミックが始まったと同時に、医局の関連病院である南多摩病院へ赴任しました。南多摩病院では、外科系患者の内科的管理・ER業務サポート・HCU入室患者の集中治療管理の他に発熱外来業務・訪問診療業務・NSTコーディネーターなどAcute Care Hospitalistとしてのノウハウを身につけました。何より、地域の要としてコロナデルタ株蔓延時には、170床に対して中等症2度以上のCOVID-19肺炎患者さんを25名以上(うちHFNC装着6名、挿管1名など)治療しました。研究活動も行いました。まずは科研費研究として可溶性ウロキナーゼ型プラスミノーゲンアクチベータ受容体(suPAR)による高齢救急患者の予後予測に関する研究のほかに、病院主導で行った、コロナワクチンに対する免疫応答に関する研究など、合計で5報の英文誌に投稿することができました。さらに、2024年石川県能登半島地震の際はAMATとJMATとして2回災害派遣を経験することができ、改めて災害発生時の連携体制の重要性を実感しました。
12年
第三子誕生
第三子
誕生
15年
東京慈恵会医科大学附属病院
救命救急センター 診療医長
慈恵医大本院が救命救急センターとなり、ECU(Emergency care unit)建設など新規プロジェクトが開始となっています。大学に戻り、第一線で活躍される著名なドクターだけでなく、あらゆる分野の専門家の方々と連携して、社会問題に立ち向かうことが、今求められていると感じ本院救命救急センターへ戻ることを決意しました。今後2025年問題や2040年問題といった大きな社会問題が迫っており、個人的には、「高齢者救急医療」「急性期・集中治療緩和ケア」「都市部-地方の連携」といった分野も整備したいと考えます。慈恵の救急としても、私なりに、若手の医局員一人一人がこの組織に所属し、人生の時間を使ってどのように医師として、一人の人間として本当に納得し充実した人生に向かってもらえるか、一緒に作っていきたいと考えています。
15年
これからに向けて
社会に目を向ければ、コロナの問題をはじめ、ロシアのウクライナ侵攻やAIの問題、イスラエルとパレスチナ紛争、世界的な気候変動とそれに伴う食糧危機など、人類の存亡に直結するような問題が数多く噴出しています。これは医療者である私たち一人ひとりも例外ではなく、一人の人間として自分自身に何ができるのだろうか・・・とよく考えます。救急医療の原点を考えた時に次の2つを強く実感します。第一に厳しい状況にある患者さんや災害などの困難な状況に「希望」と「再生」を与えること。そして第二にあらゆるコミュニティ間の「ネットワーク」を張り巡らしつなぐ役割を果たすことです。これら救急医療の本質的ないのちが開花されるように、まずは自分自身の心も技術も鍛錬し、全国の先生方と連携したいと考えます。これから日本が向かう超高齢多死社会や数々の災害などの問題群から、人々のいのち・人生・生活を守るミッションに全力で向かいます。
先生の「キャリアプラン」をお寄せください
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どのようにバランスよくこなしてきたのかなどの体験談も併記いただける方は
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