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聖隷浜松病院 救急・集中治療科 土手 尚

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卒後
0年

金沢大学医学部医学科

入学試験以前は全く行ったこともない土地に進学しました。部活は中学生から始めた柔道を継続してやっていました。アルバイトもあれこれやりましたが、一番長かったのは結婚式場の音響係で、卒業間際まで数年間続けていました。これは思い出補正もあり、救急医よりきつかった気がしますが、「他人の人生の一大イベントに関わる」「ミスらないように十分な準備をする」経験になりました。研究室配属で寄生虫学の教室を選択し、基礎研究を体験したのとインドネシアの離島にフィールドワークに行ったのも印象深い思い出です。進路選択に救急医は全くなく、子供好きなのとニッチな専門性に魅力を感じたのとで小児外科医になろうと考えていました。

卒後
1年

聖隷浜松病院 初期臨床研修医

プライマリケアに重点を置きつつ、当時の志望科だった小児外科も経験できる施設をいくつか検討し、結果的にマッチングで地元静岡の聖隷浜松病院にマッチしました。忙しい研修生活でしたが、良い同期と先輩に恵まれ、非常に充実した2年間を過ごしました。通年で救急外来当直を行なっていたほか、救急科は1年目に2ヶ月、2年目に1ヶ月ローテートしました。当時は救命救急センターの認定を受けたばかりでしたが、救急科のマンパワーは非常に少なく、救急科の指導医が睨みを効かせる中で各科のサポートを得つつ、研修医が実働部隊として診療していました。内因性疾患にも外因性疾患にも、他科のローテートや自己研鑽として学んだ内容も全て注ぎ込んで診療して手応えや失敗を数多く経験し、臨床医の醍醐味を感じました。2年目のローテートでは他院ICUで研修した先輩後期研修医がBy systemの考え方に基づくシステマチックな集中治療を教えてくれ、志望科の選択に大きく影響しました。

卒後
3年

聖隷浜松病院 救急科 後期研修医

結局、3年目は同院の救急科に残ることにしました。集中治療に魅力を感じて志望科を決めた上で、施設の選択は初期研修で経験した「自分が学んだ内容を全て注ぎ込んで診療して、手応えや失敗を数多く経験できる」ことで成長の実感があったのが、決め手でした。目標としていた集中治療専門医は施設認定が無く取得の見込みはありませんでしたが、それは後で考えることにしました。

想定通りではありましたが、科のマンパワーはやはり少なく、当直やオンコール、それ以外の病院から院外へのコール数はかなりのものでしたが独身で自分の時間はたくさんあったので何とかなりました。4年目に他院ICU研修の期間があり、本物のIntensivistの運営するClosed ICUを経験できたことは非常に大きかったです。今でも、当時の指導医や仲間、ICUならこの場合どうするか、という私淑することがあります。私の後輩学年の後期研修医が毎年1人ずつくらいは残ってくれ、マンパワーも少しずつ増えるようになりました。

卒後
6年

聖隷浜松病院 救急科 医員(救急科専門医取得)

つつがなく、救急科専門医を取得しました。マンパワーが増えたためで科内で当直医(ICU当直)をおく体制にしたことで、病院から院外への呼び出しが激減しました。

卒後
7年

結婚

結婚

小児科医(現在は新生児科医)をやっている妻と結婚しました。医師同士で共働きしつつ、子育ても見据えつつの人生設計は、かなり真剣に考え始めることになりました。

卒後
9年

集中治療専門医取得、第一子誕生

第一子
誕生

後期研修開始当初は集中治療専門医取得のための施設認定がありませんでしたが、幸運にも他院から赴任した指導医や院内各所の尽力により施設認定を取得できていたので、異動することなく集中治療専門医を取得できました。色々な縁も感じ、感慨深かったです。

また、子が誕生し、医師共働き夫婦の子育て生活がスタートしました。科のマンパワーは年々増えていたので仕事の負担は右肩下がりでしたが、それを遙かに上回る育児の負荷が加わりました。

卒後
11年

静岡社会健康医学大学院大学 社会健康医学専攻 修士課程(MPH取得)

療上の意思決定に際して手取り足取りの指導、とはいかない環境で臨床医をやってきたので、エビデンスの活用や創出には早い段階(卒後3-4年目くらい)から関心を持っていました。院内他科に臨床研究の実績が豊富は医師が多数おり薫陶を受けていた影響もありました。

ここまでに研究活動として数本の症例報告を書いたのと、JSEPTIC(特定非営利活動法人日本集中治療教育研究会)のサポートのもと京都大学のCLiP Extension(医療者のための臨床研究遠隔学習プログラム)を受講してなんとか1本観察研究で原著論文を出していましたが、キャリアの中で臨床研究に関するトレーニングの機会は設けたいと強く思っていました。また救急医療をやっていれば健康の社会的決定要因(Social determinants of health)を意識する機会は多々あり、これらを合わせてMaster of Public Health(MPH)には憧れがありました。

このための進学先を検討していたところ、時を同じくして静岡県内に新設の大学院大学が設置され、オンライン受講を中心としたカリキュラムでフルタイム臨床医を継続しつつ社会人大学院生として履修可、とのことで進学を決めました。2年間の社会人大学院生生活(+医師共働き夫婦の子育て生活)はそれなりにハードでしたが、なんとか在学中に論文を1本出版しつつ、修了できました。ただ、時間的に取捨選択した部分は非常に多く、学位相応の力量に達する帳尻合わせは修了後も続けないとマズい、という感覚でした。

卒後
12年

第二子誕生

第二子
誕生

MPH取得と前後して、第二子が誕生しました。妻(新生児科医)と協力して幸せに暮らしています。が、自分の時間という意味では独身時代と比較すればほぼゼロに等しいくらいなくなり、臨床能力向上や研究活動のための自己研鑽、後輩の指導などには相当工夫を要する状況になりました。電子書籍、音声配信、種々のチャットツール、web会議システム、生成AIなど、身近に使えるものはフル活用するようになりました。

卒後
13年

救急科指導医取得

所属施設は救急科指導医取得のための指定施設ではありませんでしたが、救急医学会は救済制度のような「指導医申請資格審査」の機会を設けていました。これを利用して審査を受け、無事に指導医を取得することができました。十分な実績があるものの施設認定の関係で指導医取得を断念している方には、是非活用していただきたい制度です。

卒後
14年

これまでに当科のマンパワーが充足してきたこともあり、救急患者以外の診療も含め院内においてICUでの集中治療医の役割を担うようになっていました。伴って、診療科名を救急科から救急・集中治療科に変更しました。
集中治療志向で救急医を志した身としては、ひとつのマイルストーンに来た感があります。

様々な幸運もあり、期せずしてここまでのキャリアの大半を単一施設で過ごしてきましたが、臨床医を行う上で地域への愛着は軽視できないと思いますし、施設の偏りが弱点になる可能性を考慮してアンテナを張って診療のアップデートを行うことで帳尻を合わせていることにしています。当科の研修を経た多数の後輩たちが様々な進路で救急・集中治療のベースを活かしているのをみて、救急医の多様性を疑似体験させてもらっています。

自身の今後は全くわかりませんが、何年目になっても学ぶことが尽きないIntensivist志向の救急医をライフワークとして生きつつ、後輩の指導も行いつつ、次の幸運を逃さないようアンテナを張っていたいと思います。

未来へ

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公開日:2024年4月22日