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健和会大手町病院 救急科 馬庭 幸詩

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卒後
0年

産業医科大学【福岡県】
【部活動、大学祭実行委員、飲み会で終わった6年間】

岡山県出身で兵庫県育ちですが、大学合格をきっかけに縁もゆかりもない福岡県に移り住みました。美味しい食べ物やお酒、情熱的で人情に厚い人々に惹かれ、この土地を好きになりました。大学時代は剣道部に所属し国家試験直前まで部活動に明け暮れ、主将も務めました。部活動を通して培った経験は、現在のリーダーシップ論やスキルアップへの心構えに活かされていると感じています。勉学については留年こそしませんでしたが、、、後に留学を考えるうえで大きな影響を受けることになりました。

卒後
1年

健和会大手町病院 初期研修医【福岡県】
【苦しいながらも成長できた初期研修医時代】

大学から近い病院というのがきっかけで見学や学生向けイベントに多く参加し、医師のみならずコメディカルや臨床研修課の事務の方々との交流も多かったため、この病院での研修を選びました。いわゆる“野戦病院”で、私が初期研修医だった頃は非常にハードな研修でした。つらいことも多かったですが、患者さんのためであれば勉強は苦にならず、成長の糧になりました。初期研修終了時には、基本的な手技や治療方針の決定に大きく困ることはなくなり、2年目には神奈川メディカルラリーで優勝し、NHKの「ドクターG」へ出演、さらには国際医療NGO「ジャパンハート」での短期研修など、多様な経験を積むことができました。当初は救急科や外科を専門に考えていましたが、大手町病院での研修を経て、どちらも活かせる「外傷外科」を専門とすることを決めました。

卒後
3年

産業医科大学病院 救急科 医員【福岡県】
【救急医としてのスタート】

産業医科大学の修学資金貸付制度のため、卒後3年目に大学へ戻り、旧制度(日本救急医学会認定)のプログラムを開始しました。現在愛知県の中京病院で副院長を務めている真弓俊彦先生の指導を受け、その温厚な人柄と「誰もがHappyになれる科を目指す」という理念に感銘を受けました。指導医の先生にも恵まれとても楽しい1年でしたが、当時は外傷症例が少なく、外傷外科の経験を積みたいという思いから、日本医科大学千葉北総病院での研修に出ることにしました。初期研修医時代に取得したBLS/ACLSインストラクターやJPTEC/MCLS/PALSプロバイダー資格に加え、3年目にはJATECインストラクター資格を取得し、現在もその活動に参加しています。

卒後
4年

日本医科大学千葉北総病院 救命救急センター 医員【千葉県】
総合大雄会病院 外科【愛知県】
【トップレベルの診療を垣間見てキャリアを変更】

日本でトップレベルの外傷診療を行っている施設で研修を受け、初期研修時代に救えなかった外傷患者が北総病院で救命される様子を目の当たりにしました。ドクターヘリを使ったプレホスピタルケアにおいても、大手町病院のOBである本村友一先生が新たなシステムを考案し続けており、彼からその基礎を学びました。当時、松本尚先生が率いる外傷外科で、今の日本の外傷外科においてトップランナーでいらっしゃる益子 一樹先生や安松 比呂志先生をみて、こんな外傷外科医になれるのか?と自分のキャリアについて悩む時期でもありました。特に松本先生の「俺達は外科医だから」という言葉に、サブスペシャリティとして外科ではなく、救急も外科も同等のスペシャリティじゃなければいけないんだ気づかされました。修学資金制度の制約により、外部研修は2年半しか許されていなかったため、残りの2年間を外科医としてのキャリアを積むことに決め、大学の先輩の紹介で愛知県の総合大雄会病院に異動しました。

卒後
4.5年
〜8年

総合大雄会病院
 救命救急センター/外科/ Acute care surgery 科【愛知県】
【外科医としてのスタート】

結婚

救急科専門医プログラムを継続しながら、外科修練を開始し2021年には救急科専門医を取得しました。2つの科の修練は大変でしたが、腫瘍外科を中心に研修しました。救命救急センターでしたが科の垣根も低く、心臓血管外科での修練、泌尿器科での腎臓摘出や、IVRも放射線科の先生だけでなく循環器内科の先生からもご指導をいただき暇があればどの科のオペにも顔を出していました。外科でも一番下でしたので、緊急手術は基本的にすべて執刀させていただきました。当時7-8人ほど外科医がいましたが、赴任していた期間の外科全体での手術件数のうちの約30%を執刀し、一般外科だけで1300件ほどの手術を経験しました。4年半の間ですのでさほど多くはないと思いますが、外科の基礎を学ぶことができました。

結婚後は、妻と食事中に呼び出しがかかることもしばしばあり、申し訳ない気持ちを抱えながらも、ハードな勤務を続けました。それでも指導医に恵まれ、オフの日にはキャンプなどでリフレッシュしつつ、充実した日々を送っていました。後進の指導にも携わるようになり、自身の研修医時代を振り返り、どのようにすれば若手がより良い教育を受けられるのかを考えるようになりました。

当時大雄会病院でご指導いただいていた日下部 光彦先生は、成功したことは自分のことのように喜んでくれ、自分の思う様に行かなかった時には「まぁそんなこともあるよな」と励ましていただきました。年齢はほぼ私の父と一緒でしたが、外科医として、教育者としてのイロハを学び、多く知り合った医師の中でも一番メンターと言える先生に出会えたことで、もっと一緒に働きたいと思い大学の修学資金も返済し外科医として勤務を続けました。がんを患う患者さんからも多くのことを学び、一時は救急医をやめて腫瘍外科医もいいかなと気持ちが揺らいだこともありました。しかし一瞬の出来事で人生が変わってしまう外傷症例を目の当たりにするたびに、やっぱり自分は外傷外科医になりたいんだと再認識しました。東日本大震災で高校時代の友人が被災した経験などからも、外傷、災害医療の道で生きていくと心に決めました。

卒後
9年

卒後9年目 U.S.Naval Hospital Yokosuka, Japan【神奈川県】

第一子
誕生

外傷外科医になるという目標を抱きながらも、このままでは北総病院の先生方のような外傷外科医にはなれないと感じていました。そんな中、7年目の年末に当時のTwitter(現X)でアメリカで外傷外科を目指している斎田文貴先生と出会い、思い切って直接メッセージを送りました。面識がないにもかかわらず快く返信をいただき、数日後にはZoomで数時間にもわたり相談に乗っていただきました。この出会いが私の人生を大きく変えました。医局に属さず、外傷外科の有名な施設でキャリアを積んできたわけでもない私のような医師が経験を積むには、海外しかないと考え、USMLE(United States Medical Licensing Examination)に挑戦することを決めました。

しかし、当時の環境の中で、23時頃から3時まで勉強しても進捗はわずかであり、一生合格できないかもしれないと諦めかけていました。そんなとき、斎田先生から「海軍病院を受けてみたらどうか。自分でも受かったし、米軍病院を全部受けたらどこかしら引っかかるよ」とアドバイスをいただき、米軍病院フェローシップに挑戦することにしました。準備を始めたのが7年目の2月で、8年目の8月に面接があったため、わずか半年間での準備かつ、3月に第一子が誕生し、育児と両立しながらの準備は非常に困難でした。幸い、多くの方々に助けていただき、奇跡的に外傷外科医を多く輩出してきた横須賀米海軍病院に拾ってもらいました。

9年目から横須賀米海軍病院に赴任しましたが、英語は全く聞き取れずChatGPTを片手に過ごしました。横須賀の同期は卒後3年目が3人、他、7、8、9年目の医師で私が一番年上でしたが私が一番ポンコツでした(半分は現在すでにアメリカにいます)。学生の頃からキャリアを考え努力してきた同期を見ていると、自分の学生生活は本当に恥ずかしいもので、この年からまた英語で基礎医学を学び直すことも辛いものでした。人生で一番辛い受験勉強でしたが、同期の激励もありなんとか1年間でUSMLE Step1, 2CKを合格することができました。

卒後
10年

卒後10年目から現在 健和会大手町病院 救急科 医長【福岡県】

おそらく誰にも真似できない(したくない)ような茨のキャリアを積みつつ、初期研修先の病院へ戻ってきました。現在は救急、外科、IVRを担当していますが救急医としての役割がメインです。救急医の魅力はさまざまですが、私は「最も信頼される立場」にあることが醍醐味だと感じています。外科医時代には、夜間の緊急手術で麻酔科の先生から「まぁ馬庭は頑張ってるし緊急オペいくらでも引き受けるよ」と仰って頂けたり、リーダーシップを取る際にも「任せるよ」といってもらえることが多くなりました。救急医として他科の先生方にコンサルトする機会も多いですが、「まぁお前のコンサルトなら大丈夫かな」と仰っていただき、その先生が来るまでにできる限り全てのことを終わらせておき最高のパスを出せることが何よりもやり甲斐があることかなと思います。外科以外の先生からも「もうあとはオペするだけってか?はいはい、、」といってもらえたら心のなかでガッツポーズです。

自分でも手術を行いますが、2つの専門領域を持っているため、技術的に他の外科医に敵わないこともあります。ただし、患者を救うためのチームの一員として、各自が最高のパフォーマンスを発揮すれば救命できるというのが救急の本質です。稀なキャリアを積んできたからこそ、各科の立場を理解し、信頼関係を築けていると感じています。

今でも脳外科や整形外科などいろんな科の手術で助手もさせていただいており、看護師さんから「先生、本当は何科なんですか?」と聞かれることもあります。広く浅く、時々深く専門を持てるのが救急科であり、その中で周囲から信頼を勝ち取りリーダーシップを発揮することが私の救急医像です。

赴任してまだ半年ですが、現在は近隣の医療機関や消防との連携強化にも取り組んでいます。キャリアについて悩んでいる若手救急医の先生方がいれば、ぜひ一緒に悩みましょう。様々なキャリアを知ることで、自分にしか見えない、進めない道が見つかるはずです。

これから

第二子
誕生

ECFMG (Educational Commission for Foreign Medical Graduates) Certifiedまで残りOET(Occupational English Test)という試験がありますが、今年2024年に第二子が誕生し、子供たちの成長発達を優先しいつ留学するかは検討中です。外科修練登録が遅くなり2025年1月に外科専門医取得予定で、その他集中治療専門医、Acute care surgery 認定医、外傷専門医、救急科指導医の要件もほぼ満たしていることからそれらを2−3年以内に取り終えてからでも良いかなと考えています。USMLEが終わり気を抜く暇もなく、来年度はこれらの試験を同時に受けなければいけませんが、、、自分の成長と思い挑戦を続けていきたいと思います。現在も留学や米海軍病院に興味を持っている先生方からご相談をいただけることが多く、米海軍病院での経験も他の方の手助けになれば嬉しいです。

未来へ

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内容のアップデートもお待ちしています!

先生がどういった経緯を経て救急医という職業を選ばれたのかを
熱いメッセージとともに寄せていただければと思います。
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さらに、男女問わず結婚や出産、育児という家庭人としての経験と仕事を
どのようにバランスよくこなしてきたのかなどの体験談も併記いただける方は
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また、内容の修正などをご希望の際はこちらのお問い合わせフォームよりご連絡ください。

先生方の熱き想い、お待ちしております!

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