救急医になった理由⑤ 【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
第1章 こちら救命救急センター
救急医になった理由⑤
そして、明秀が本格的に救急医をめざすきっかけになった二つの事件がある。一九八四年、青森県立中央病院で研修をしているときのこと、暴漢に刺された旅館の女将が運ばれてきたが、明秀は胸腔ドレーンを入れることしかできなかった。みんなで処置に当たったが、治療はそこまでしかできない。そのあと何をすればいいのか、誰も知らなかった。外科医を呼んだが、彼もわからない。患者が「痛い」「苦しい」とうなり声をあげているというのに、次ぎの一手がなく、まごまごしているうちに患者は死亡した。それは避けられた死であり、明秀はショックを受けた。
もう一つの事件とは、國松長官狙撃事件だ。
一九九五年三月三十日午前八時半ごろ、國松孝次警察庁長官が東京都荒川区の自宅マンションを出た直後に、背後から自転車で近づいてきた白マスクで登山帽の男に拳銃で狙撃され、腹部などに三発の銃弾を受けた。瀕死の重症だったが、搬送先の日医大附属病院で手術をして一命を取り留めたというニュースに明秀は興奮した。
「おお、これぞ外科医として生きる道だ!」
さらに高度な救命救急をめざしたいと思ったのである。青森の大間病院時代に本格的な救命救急の始まりを肌で感じた明秀がめざすものは、瀕死の重症患者を一人でも多く救うことだった。
なお、國松長官狙撃事件の犯人は見つからないままだったが、二〇〇四年七月、元オウム真理教信者の小杉敏行・元警視庁巡査長ら三人が殺人未遂容疑で逮捕された。しかし、東京地検は二十八日、起訴を見送り、刑事処分を保留したまま釈放した。結果的に立証できず、現在も未解決のままとなっている。
明秀は日医大の教授に電話をかけて相談すると、
「すぐに見学に来なさい」
早速、明秀は上京し、文京区にある日医大附属病院の救命救急センター(現・高度救命救急センター)へ行った。日医大附属病院は、日本の救命救急センターの草分け的存在である。東京都第二次救急(集中治療を要する救急患者を扱う)医療施設として、東京消防庁からの救急患者収容要請や二次救急病院からの転送依頼を断わらないという救急患者優先主義が開設以来の一貫した方針。一九七七年(昭和五十二)に救命救急センターが厚生省の指定する第三次救急医療施設として認可された。
明秀がそのパイオニアたる救命救急センターで目にしたのは、日夜、搬送されてくる救急患者の多さと、医師やスタッフが二十日も帰宅できずに狭い当直室に寝泊まりしながら、救命活動に当っている光景だった。
「これはたいへんだけど、やりがいがあるぞ。あのとき國松長官はここで助かったのだ。おれもやってみたい」
体中の血が騒いだ。やはり、青森県の救急医療とは規模がちがった。初期治療から手術、ICU管理まで、すべて救命救急センター専属の医師と看護師が二十四時間体制で治療にあたっている。一般外科救急科・脳神経外科・胸部外科・整形外科・麻酔科・精神科の専門医の資格をもつ救急専門集団が魅力的に映った。
次回に続きます…
本連載は、2005年に出版された書籍「プリベンタブルデス~ある救急医の挑戦」のものであり、救急医の魅力を広く伝える本サイトの理念に共感していただいた出版社シービーアール様の御厚意によるものです。
なお、診療内容は取材当時のものであり、10年以上経過した現在の治療とは異なる部分もあるかもしれません。
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