対談◇國松孝次・今明秀 ①【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
対談◇國松孝次・今明秀 ①
救急ヘリコプターの進展のために
元警察庁長官の國松孝次さんは特定非営利活動法人救急ヘリ病院ネットワーク(HEM‐Net)の理事長として、ヘリコプター救急活動の重要性を説き、普及活動を進めている。1995年3月、國松さんは凶弾に倒れ、搬送先の日本医科大学附属病院では、一時は危篤状態に陥ったが、総力あげての救命によって1命をとりとめ、ニカ月半後には無事に退院し、私たちはテレビを通してではあるが、元気な姿を見てほっと肩をなでおろす思いだった。
救急患者の救命率の向上、あるいは「防ぎ得た死」を回避するためにヘリコプター救急の普及を図ることは急務なのではないだろうか。
救命救急センターまで30分
今 当時、私は青森県で外科医をしていました。青森では重症傷害事件が発生したときはほとんどが助からなかったと記憶しています。しかし、國松さんは腹部に銃弾3発、普通なら助からないような重症ですから、驚異的なことでした。それを助けた救急医の圧倒的な力を見せつけられました。これじやあ、だめだと、外科をやめて救急の道に進路変更しました。日医大で救急を教わりたいと門をたたきました。あのとき國松さんが奇跡的に助かったことを聞かなければ、私はいまでもがんの手術をして、救急医にはなっていなかったでしょう。
國松 ほう、そうでしたか。でも、がんの手術も大切なことですね。
今 そのとおりです。ただ、がんを手術する医者は大勢いますが、こういう外傷や救急を専門にする外科医は日本ではまだまだ不足しているのが現状です。
國松 あのとき私が助かったのは、日医人に担ぎ込まれたのがよかったんですね.ほかへ運ばれていたらわかりません。H医人の辺見先生と益子先生だったから助かったのですと、ほかのお医者さんにもずいぶん言われました。
今 撃たれたときは、痛かったでしょうね。意識のほうはどうだったのでしょうか。
國松 いやいや、もう3発も撃たれると、痛いも痛くないも、感覚的にわからない。何がなんだか、わからないという感じでした.でも、日医人に到着したときの記憶もあったんですよ。記憶があったから助かったのでしょうか。救急車のストレッチャーかる病院のストレッチャーに移されて、清ている背広をハサミでバッサバッサと切られていく
のも党えています。ああ、人に断りもなく、ひどいことするなと思いましたからね。
今 40%以上の出血だと意識が遠のきます。ということは、持ちこたえていたんですね。
國松 あとから聞いた話ですが、辺見先生は私の身体に青あざができるほど、強くたたいたって言います。
今 痛み刺激と呼びかけを繰り返して意識レベルの評価をしたのですね。
國松 私の救命に成功した原因の1つに、救急処置をパッパ、パッパと手早くやっていただけたことがあります。両先生の外科医としての腕は驚異的なものがあります。日医大ではなくほかの病院に行っていたら死んでいたかもしれません。荒川消防署の救急隊長の判断もたいへんよかったんですね。それと、8時半に撃たれて9時には日医大に着いています。その時間帯に担ぎ込まれたことも重要です。私が着いたときにはたくさんの先生たちが待っていてくれたんですね。交通事故などで大量に出血した場合、30分で半数が死亡するということを考えれば、私がその30分で搬送されたことはとても重要です。
今 國松さんがヘリコプター救急の全国展開をなさろうとしたきっかけは、そうしたご自分の経験もあったからなのでしょうね。
國松 そうですね。私が30分で搬送されて助かっていることを考えると、できるだけ早い搬送が救命率を高めます。平成16年の消防白書では、年間約460万人の患者が搬送され、そのうちの17万人が、病院まで一時間から2時間、約9000人が2時間もかかっています。救急医からすれば、もう少し早く連れてきたら助けられたのにということでしょうね。患者の搬送に一時間以上かかるようでは、救急車の機能を呆たしているとはいえません。ということは救急車では間に合わない場合があるわけですよ。
今 私も何度か重症の患者さんの移動にヘリコプターで搬送して、救命に成功することができました。
國松 欧米の先進国では大量のヘリコプターを次々と救急活動に投入して、すぐれた救命効果を上げています。日本でも数年前にはじまったドクターヘリの実績を見るだけで、救命効果が1挙に高まることが明らかになりました。多くの急病人や交通事故の被害者が死を免れ、重い後遺症に悩むことなく社会復帰できることが実証されたのです。
今 私などもヘリコプターで搬送しようとしたとき、「大げさだ」と反対されましたが、生命の危機にさらされた人間を救うためには大げさだということは決してないのです。
國松 ヘリコプターは安全性に欠けるものでもなく、また運航コストもその救命効果を考えれば、決して高くはないのですね。
1937年6月静岡県生まれ。東京大学法学部卒。
1961年4月警1察庁人庁後、兵庫県捜杢第2課長、警視庁本富士警察署長、在フランスロ本国大使館一等書記官、内閣官房長官秘書官、大分・兵庫各県警本部長、警察庁刑事局長などを経て、1994年7月弘言察庁長官就任。
1997年2月退官。1998年1月自動車安全運転センター理事長。
1999年9月から駐スイスロ本国大使を勤め、2002年11月帰国。
現在はNPO法人「救急ヘリ病院ネットワーク」理事長、財団法人「犯罪被告救援基金」常務理事、損保ジャパン顧間(非常勤)、日興コーディアルグループ特別顧間(非常勤)、丸紅社外取締役などを勤める。著書に『スイス探訪』(角川書店)がある。
次回最終回「対談◇國松孝次・今明秀 ②」に続きます…
本連載は、2005年に出版された書籍「プリベンタブルデス~ある救急医の挑戦」のものであり、救急医の魅力を広く伝える本サイトの理念に共感していただいた出版社シービーアール様の御厚意によるものです。 なお、診療内容は取材当時のものであり、10年以上経過した現在の治療とは異なる部分もあるかもしれません。
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