日本の救急医療とER④【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
第3章 救急こそ医療の原点
日本の救急医療とER④
個人的な話になるが、10年前のことである。「特に異常は見られませんから大文夫ですよ」と2度も医師に帰された女性の突然の死を思い出すたびに、私は悔しい気持ちになる。
1995年というのは、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件があって荒れに荒れた年だった。7月初旬、かつての仕事仲間の女性に久しぶりに電話をした。19気でいるのかと思っていたが、実は激しい頭痛に襲われ3度救急車で運ばれたが、3度ともcT検査で異常なしと診断され鎮痛剤を渡され帰宅させられたという。
私などはあまり頭痛というものを経験したことがないので、激しい頭痛と聞くと、クモ膜下出血など脳血管障害に直結させてしまうようなところがあった。「ほかの病院に行って検査したほうがいいと思う」と言ってみると、「いまは痛くないけど、また痛くなったらどうしようかと心配なので、ほかの病院に行ってみるね」と彼女は言った。あとは映画や音楽の話をしてから近いうちに会おうと言い合って電話を切った。
ところが、それから10日ほどたってから、同じ仕事仲間だった1人から電話がかかってきて、彼女の死を知らされた。ただ、驚くばかりで信じられなかった。しかも、1人暮らしの彼女は死後1週間がたってから、アパートの持ち主によって発見されたのである。夏だったが、エアコンが作動したままの室内は涼しく、遺体の傷みは少なかったという。
死因は心不全ということだったが、だれもが納得できなかった。彼女は誰にも知られずに逝ってしまったのである。34歳は若すぎる。ショックだった。ひたすら悲しく悔しかった。葬儀には、仕事仲間の6人がそろって出席した。みんな泣き続けた。以来、毎年、仲間たちは夏の墓参を続けているのだが、何年たっても彼女はどこかに生きていてマイペースで原稿を書いているような気がしてならない。
彼女の死は、3度の激しい頭痛に襲われたことと無関係ではなかったはずだ。いまでも私はクモ膜下出血の発症があったのではないかという疑いを持っている。
次回に続きます…
本連載は、2005年に出版された書籍「プリベンタブルデス~ある救急医の挑戦」のものであり、救急医の魅力を広く伝える本サイトの理念に共感していただいた出版社シービーアール様の御厚意によるものです。 なお、診療内容は取材当時のものであり、10年以上経過した現在の治療とは異なる部分もあるかもしれません。
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