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社会医療法人 松藤会 入江病院 入江 聰五郎

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卒後
0年

香川大学医学部(旧香川医科大学) 【香川県】

実家が中規模の町医者的病院で「お前は医者になるんだ」と刷り込まれ、反抗しながらも渋々医学部受験をするために4浪を経て医学部入学。学生時代はほぼ100%に近くテニス部のことに没頭、テニス留学で帰国時間を間違えて進級試験に間に合わず、そのまま留年するという体たらく。国試にどうやって受かったのか、未だ謎でもありますが奇跡的に医師国家試験に現役合格しました。ただ、絶対に受かってやる、と気合と根性で大学図書館に入り浸った4ヶ月の頑張りは、もう2度とできないと思います。

町医者に必要なトレーニングが詰めるところでの医師人生スタートを目指し、たまたまドクターズマガジンで目にした、のちにお師匠となる宮城征四郎先生のところに直談判(沖縄県立中部病院の入職試験は悲惨な成績で不合格。それでもやる気だけはあるから!と3度ほど沖縄に足を運びました)。研修医となった2003年は今の研修制度開始前年度。2004年度から始まる研修制度の実験台としてちょうどいいのがいるよ、と宮城先生の鶴の一声で、沖縄の民間2病院から面接があり、「お昼ご飯が美味しそう」な浦添総合病院に入職しました。

卒後
1年

群星沖縄 浦添総合病院 初期研修医 【沖縄県】

指導体制構築からスタートする、とは聞いていましたが、教育的な時間はほとんどなく、ただただ上級医の事務仕事をサポートするだけの日々だった中、お師匠にまたも直談判。

「(私)指導してくれると聞いたのに、何も指導して貰えていない!」
「(お師匠)じゃぁ君はバイタルを極めなさい。そして、それを伝えられるようになりなさい」

と初期研修医1年目の入職1ヶ月が終わる頃に資料(A4で2ページ)をいただき、それを頼りに日々の臨床をしていました。

ただ、あまりにお師匠や他の先生たちがすごすぎて、あっという間に「医師としてはダメな自分」の烙印を自分で押してしまい、鬱状態に。そんな時に、離島研修の実験台として訪れた、鹿児島県下甑島の瀬戸上健二郎先生(ドクターコトーのモデル)に2週間師事。医師たるものかくあるべき、と追い込みすぎていた自分に「自分らしく医師たるべき」とうつ状態から一気に脱却。

その後、宮城先生の教育回診、徳洲会グループの堀江先生の急性腹症CTカンファレンス、林寛之先生や寺澤秀一先生の著作などをもとにしつつ、ACLS、JATEC、PALSといったシミュレーショントレーニングを軒並み行脚、一人でも当直時間中の患者の命を繋ぐ!ことに必死になるうちに、救急、特に救急外来の対応が苦しくも楽しいものと感じるようになりました。

卒後
3年

群星沖縄 浦添総合病院 救急総合診療科 専攻医 【沖縄県】

2年の初期研修終了直前、ピッツバーグ大学で1週間の短期研修に参加(電話面接という難関選抜は、またも気合と勢いでクリア)、沖縄で二年間頑張ってきた救急現場の経験と教育カンファレンス、自分なりの勉強法が全米トップクラスの研修病院でも通用することに驚きつつ、これなら後輩たちにも共有できる!と確信をもち、救急現場での後輩指導とともに自己研鑽を進めました。

専門医取得については「資格というものは、向こうから『取得してください』となるように普段から研鑽を努めた先にあることであって、専門医取得するために今がある、という働き方はよくない」と複数の師匠らからの教えもあり、専門医を「自分の将来のために取得する」ことは考えていませんでした。

卒後
6年

群星沖縄 浦添総合病院 【沖縄県】
大浜第一病院 救急総合診療科 【沖縄県】

後輩たちの救急外来教育に力を入れる中で、これまで溜め込んできたノートをまとめ直し、バイタルサインの重要性を学習するツールとして宮城征四郎先生に相談したところ、「これ、面白いね。文献をつけたら1冊の本になるから出版しよう。大丈夫、僕(宮城)の名前でバカ売れするよ!」と口車に乗せられるように半年間かけて修正、2011年3月に拙著バイタルサインからの臨床診断を上梓することとなりました。

時期を同じくして、沖縄県公的ドクターヘリ事業のための準備や沖縄県若手医師懇話会(むりQ Jr)世話人をしつつ、後輩たちへの教育の質を担保する必要性も感じ、自費(込み込みで300万)を投じてハワイ大学で研鑽を積まれた斉藤中哉先生の指導のもと、一年間の医学教育フェローシップを修了しました。

そうこうするうちに、群星沖縄の基幹病院 大浜第一病院での救急総合診療科立ち上げのお話をいただきましたが、当時は専門医も取得していなかったため、大急ぎで専門医取得のため受験。1浪しましたが、無事卒後7年目で救急専門医を取得しました。
専門医を取得したのは「君のところで研修する後輩たちのために、専門医を取りなさい」との師匠らの後押しが一番大きな要因でした。その後、大浜第一病院での救急総合診療科立ち上げをし年間救急受け入れ台数の大きな増加を那覇市より表彰を病院が受けたり、Difficult Learnerの研修医受け入れ、外国人研修医受け入れや海外留学支援の実績を伴い、再度古巣の浦添総合病院に戻ることとなりました。

この間、DMATトレーニングも修了し、那覇空港での中華航空機爆発事故の災害救護対応や東日本大震災へのDMAT応援など、救急医でなければ決して経験できなかった数々の経験を積むことができました。

卒後
7年

救急科専門医 取得

卒後
9年

おきなわクリニカルシミュレーションセンター 【沖縄県】

救急科専門医として臨床で活動しながら、沖縄の若手医師らの研修環境整備のためにも、とオール沖縄(大学病院群、県立病院群、民間病院群)で取り組むこととなったおきなわクリニカルシミュレーションセンターの民間病院群の代表世話人として、古巣の浦添総合病院とおきなわクリニカルシミュレーションセンターの双方で従事。東京慈恵医大の武田聡教授やハワイ大学のBenBerg教授らのサポートもあり、FunSimおよびiSIM修了(全て自腹を切って参加したところ、後日県から補助金やで、と全額:50万くらい、補助していただけました)を経てバイタルサインからの臨床診断 シミュレーショントレーニングCPVSを開発、運営を開始しました。

同時にハワイ大学と琉球大学の共同医学教育ティーチングフェローシップの指導スタッフもにない、オール沖縄の若手指導医教育のプログラムの立ち上げにも参加しました。

卒後
12年

入江病院(実家) 【兵庫県】

これまで臨床、教育、情報発信、現場リーダーとして活動してきた沖縄での経験もあり、沖縄の教育事業も後継者が育ってきた時期と重なったこともあり、次のキャリアをどうしようかと迷っていたところ、実家の後継者となる決意をこの時にしました。

元々、町医者である父の姿を見て育っており、救急も集中治療ではなくER方面に進んだことや、若手を教育し新たなプロジェクトの依頼にも応えてきた経験が、役に立つのではないか、などさまざまな思いが複雑に絡み合った結果、地元に戻る決意をしました。

実家は個人経営の医療法人であり、運営面(経営面)については実の兄(一般職)がMBA取得し精神科医師であるもう一人の実兄が理事長、実父が病院長でした。

地元に戻るにあたり、ケアミックス病院の強みを活かそう、と長期プランを考えました。

その上でまずは自分のできることをできる限りやろう、とケアミックス病院199床(急性期50床)で年間700台ほどの救急搬送受け入れだったところを、最大で年間2100台受け入れまで成長(コロナ禍後は1800台/年間)、時間外の救急搬送受入実績を兵庫県に認められ、救急事業での社会医療法人取得(法人税が免除!)に貢献しました。

しかしながら救急医としてはそれなりにできると自負していましたが、ケアミックス病院は慢性期まで預かっており、毎日学ぶことの多さと答えのない問題解決に奔走する日々でした。

高齢化に伴う地域での救急搬送困難事案の割合の高さも気になりつつ、自分ができることをただやるのみ、と孤軍奮闘することとなりました。

卒後
19年

入江病院 病院長就任〜 【兵庫県】

救急医を目指す君へ

社会医療法人の実績や初代院長も高齢となり第一線から引くタイミングもあり、病院長に就任しました。

急性期から慢性期の30名超の病棟担当医をしながら、一般外来と救急受け入れ、月2回の訪問診療と毎週の当直業務、とかなりハイパーな動きをしていた時期もありました。あらゆる病態に対応できる救急医ならではの多忙さであり、多忙時期は多くの失敗をした残念な時期でもあります。

そうこうする内に私の臨床業務を肩代わりしてくれる若手医師が一人、二人、と入職してくださるようになり、臨床業務の多忙さも落ち着き、各科医師からの相談も受け付けられるようになってきました。

ケアミックス病院に搬送される救急症例はそのほとんどが高度の侵襲を必要としないもので、いわゆる「こんなの救急じゃない」かもしれません。

しかしながら、実際に地域の方達は困り果ててしまった結果、救急を要請しており「現状では生活が維持できない」のです。

その背景は患者自身のこともあれば、家族や社会のサポート不足でもあります。軽症と思いきや高度急性期に預けるべき症例に遭遇することもしばしばあります。同様に高度急性期施設がよりスムーズに稼働できるよう、超急性期でも軽症であったり侵襲処置を必要としない方針でも入院が必要な症例を預かることも多くあります。

ケアミックス病院の救急医に求められるのは「疾患や病態に関わらず」その橋渡しであり、地域医療の「要」となることなのです。

ケアミックス病院もより多くの救急医、その経験者の参入を欲しています。

若手の時期にいわゆる救急花形の経験を積んだ後、その先に不安を感じる人も多いことでしょう。

でも大丈夫。

道は高い山の頂上に向けて進む一本道だけではありません。

人生の転機が訪れた際、ケアミックス病院という選択肢はあなたの医師人生をより豊かなものにできる大海原にもなり、さらなる高みに向けて進むための一息つく場所にもなります。

 

救急医を目指す君へ。

人生を急ぐことはない。

ただ、救急現場では急がなくてはならない。

息切れすることもあるだろうし、進めなくなることもあるだろう。

心配しないでいい。

頑張った君たちを受け入れる受け皿は、
救急医の世界には広がっている。

安心して飛び込んでください。

君の医師人生を一緒に良いものにしていこう。

未来へ

先生の「キャリアプラン」をお寄せください
内容のアップデートもお待ちしています!

先生がどういった経緯を経て救急医という職業を選ばれたのかを
熱いメッセージとともに寄せていただければと思います。
こちらの「キャリアプラン」アンケートフォームよりご投稿ください。

さらに、男女問わず結婚や出産、育児という家庭人としての経験と仕事を
どのようにバランスよくこなしてきたのかなどの体験談も併記いただける方は
こちらの「キャリアプラン+ライフイベント」アンケートフォームよりご投稿ください。

また、内容の修正などをご希望の際はこちらのお問い合わせフォームよりご連絡ください。

先生方の熱き想い、お待ちしております!

公開日:2024年11月13日