救急と災害医療―新潟中越地震、緊急救援ヘ①【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
第3章 救急こそ医療の原点
救急と災害医療―新潟中越地震、緊急救援 ヘ①
「災害は忘れたころにやってくる」の諺があるが、ここ10年の日本を振り返っても次から次ヘと災害が発生している。
1995年に起きた阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件はいまだ人々の記憶にくっきりと残っているというのに、2004年には、台風や大地震に見舞われ、あらためて日本は災害大国であることを痛感させられた。さらにスマトラ沖大地震とインド洋大津波により死者行方不明者が15万人という驚異的な数字を記録した。それらの自然災害や突発的な人為災害は、一般市民はもとより医師の災害観を大きく変えることになったのではないだろうか。
災害医療はともすれば、救急医療と同じ概念でとらえがちだが、根本的には発想の転換を迫られるものである。医療スタッフが連携して1人の重症患者の治療に当たる救急医療に対して、災害医療では多数の重軽傷の患者を相手に少数の医療者が孤軍奮闘することになり、それは手に負えるものではない。災害の軽減ためには行政と病院が1体となって対策に取り組んでいかなければならないのである。
2004年の新潟中越地震ではどうだったのか。阪神淡路大震災の教訓があったにも関わらず、緊急救援など災害対応は混乱を極めた。新潟中越地震は、災害医療対応体制の見直しから、あらためて救急医療とは何かを考えさせられる教訓を残したのではないだろうか。
2004年10月23日(土)午後5時56分、新潟中越地方にM6・8の直下型地震が発生し、震度6強の余震が何日も続いた。現地の被災状況を伝える映像を見て、早10年がたってしまった阪神淡路大震災の記憶が甦り、他人事ではないことを私たちは思い知らされた。地震で一部壊れた住宅を合わせると10万棟近くの住宅が被害を受けた。
被災地では避難生活を余儀なくされた人々のために食料品や生活必需品などの救援物資が届けられた。そして何よりも医療スタッフの不足ということがあり、人々の健康や精神的ショックが心配された。
八戸市立市民病院救命救急センターでは、今明秀が日曜朝のニュースから地震の被害の大きさを知り、1刻も早く緊急医療班として出動する心構えでいた。しかし、新潟県から青森県ヘの緊急救護の要請はなく、明秀は三浦院長に相談しようと思っていた翌25日朝に院長から「青森県から新潟地震へ、救護班編成について問われたが、どう返事すればよいか?」と相談され、明秀はもちろん「出動します!」と返答する。救急医の血が騒いだ。ところが、翌26日になっても肝心の新潟県からの要請はなく、明秀は医療ボランティアを電話で申し込んだ。しかし、「被害に遭っている各市町村とのマッチングをするので、夕方まで待ってほしい」と言われる。
夕方、新潟県庁に電話すると、
「ボランティア団体が80を超えていて、マッチングには日数がかかるので、待ってほしい」
「待てない町もあるのではないですか」
「県庁ではうまく末端まで把握できていないのです」
「それでは市町村の役場の連絡先をファックスしますから、もし出動が決まったら、必ず県庁にお知らせください」。
夜に届いたファックスには市町村名と、避難人口、電話番号が書いてあった。しかし、初めて聞く地名も多かった。いくつかの町に電話をしてみると、なかには「ぜひとも応援よろしくお願いします」という町もあった。すでに日赤医療チームが多数入っているので応援を必要としない町もあった。
次回に続きます…
本連載は、2005年に出版された書籍「プリベンタブルデス~ある救急医の挑戦」のものであり、救急医の魅力を広く伝える本サイトの理念に共感していただいた出版社シービーアール様の御厚意によるものです。 なお、診療内容は取材当時のものであり、10年以上経過した現在の治療とは異なる部分もあるかもしれません。
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