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横浜市立みなと赤十字病院 救命救急センター 鈴木健人

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卒後
0年

東京医科歯科大学(現:東京科学大学) 医学部医学科【東京都】

私は小学生の頃から、父親の母校である「東京医科歯科大学」に行きたいと思っていました。なので、医師、歯科医師などその先の職業のことはあまり考えていなかったような気がします。中学生になり、通っていた塾の夏期講習で「がん」の授業を受け、研究が治療に繋がって人の命を救うことができる、という医学領域に興味を持ち、改めて医師を志しました。

大学生では硬式テニスに明け暮れ、部活と共にテニスコーチもしていました。あまり勉強はしていなかったと思います。この頃にもっと基礎医学の勉強をしていれば、今こんなに苦労することはなかったかもしれません笑

卒後
1年

横浜市立みなと赤十字病院 初期研修医【神奈川県】

医師であるからには人の命を救えなければ意味がない、と思っていたので、母校の関連病院の中で最も救急が有名であるみなとを初期研修先として選びました。その当時は、救急スキルを初期のうちに身につけて、整形外科、循環器内科、産婦人科のどれかに進もう、と思っていました。

しかし、熱しやすく冷めやすい自分には救急外来が非常に合っていることに気づきました。年間1万台以上、一晩に3,40台救急車が来る救急外来が楽しくて、他の人の分をもらって月10回くらい当直したこともありました。

また、集中治療部を研修した際、どんな病気、どんな患者であっても重症であれば集中治療部に相談が来ることを知り、集中治療部は「救命の最後の砦」である、と実感しました。

医師なら救命、の初心に帰って、救急医、集中治療医を目指すこととしました。

卒後
3年

横浜市立みなと赤十字病院 集中治療部専攻医専攻医【神奈川県】

日中は集中治療部で研修しながら、夜間当直は救急外来、という研修でした。集中治療部の専攻医が2人しかいなかったので、年間の入院患者の半分を主治医として受け持ったので、非常に充実した経験を積むことができ、全身管理を行うことに関しては1年で一通りできるようになりました。

休日の方が人が少なく自分で色々できるので、楽しくて休日出勤していました。今考えると社畜ですね笑

卒後
4年

横浜市立みなと赤十字病院 集中治療部専攻医(内科出向) 【神奈川県】

救急医、集中治療医で働く中で臓器サポートはできても、適切に診断して根本治療を行えなければ救命できない、と気づきました。そのため臨床推論を学ぶために膠原病リウマチ内科、腎臓内科で院内研修をさせていただきました。

臨床医として非常に優秀な上司に恵まれたため、本物の内科医の下で、「病歴と身体所見から病気を推定し、必要な検査を行って診断し、治療につなげる」、この当たり前のプロセスを徹底的に叩き込まれたのは、今の医師としての礎になっています。

卒後
5年

佐久医療センター 救急科専攻医、スタッフ【長野県】

ここまでで救急医、集中治療医として重要なベースを作ることはできたように感じました。ずっと同じ病院にいることの不安と、今の自分がどれくらいできるのか試したいという好奇心から、他の施設へ異動を考えました。先輩が異動していたこと、軽井沢が好きであること(笑)から、佐久医療センターに異動しました。

ここでは救急医が病院前診療、救急外来、集中治療室、救急病棟、一般病棟と幅広く診療していて、さらに一般外来や在宅診療を行っている先生方もいました。自分はこれまでの経験を集中治療室で生かしながら、新たな経験として病院前診療にも従事しました。

ドクターヘリ業務では、改めて自分の臨床推論能力のなさを実感させられ、殴られたような衝撃を受けました。ほぼ検査のできない現場でABCの安定化を行いながら、病歴と診察のみで臨床診断を下し、適切な医療機関を選定、搬送しなければならない、これは非常に困難です。やはりCTに頼っていたんだな、と実感し、改めて病歴聴取と診察スキルを磨き、臨床診断能力を高めることに没頭しました。救急科が不明熱、感染症などの総合診療科としての役割も担っていたことも、臨床診断能力の向上につながりました。

また、在宅医療との繋がりもあり、「メディコポリス」という地域と医療の結び付きについても学ぶことができました。

卒後
6年

卒後6年目 救急科専門医 取得

卒後
8年

集中治療科専門医 取得
横浜市立みなと赤十字病院 集中治療部、スタッフ【神奈川県】

プライベートの都合で自分の生活拠点である横浜に帰陣し、現在までみなとでの業務を行っています。

ICUに専従したり、救急科として勤務したり、呼吸ケアサポートチームやRapid Response Teamとして病院全体に関わったりと毎年形を変えながら、みなとに貢献できるよう尽力しています。令和6年能登半島地震では日赤救護班として現地で2回救護活動を行いました。人生の変わる経験でした。

また医療連携センターにも籍を置いて医療連携に関連した業務をいただいたり、横浜市消防局での仕事、日本集中治療医学会の若手部会の仕事などをいただいており、今感じる葛藤や不具合を解消すべく、日々尽力しています。

卒後
12年

これからのプラン

これまでの自分はかなり臨床にアクセントのある医師人生を歩んできました。改めて臨床は好きで、今後も臨床医として最強になれるように研鑽していくつもりです。

一方で、医療政策やシステムに関わるためにはきちんとした知識と研究実績が必要であり、それに関連した研究に興味を持っています。また今後の医療は日本の経済、人口動態の影響を大きく受けるはずであり、経営知識も必要になってくると思います。適切な知識を身につけて、生命倫理とバランス良く検討して現場に生かせるような、そんな学びをできたらいいなと思っています。

かっこいい、先生みたいになりたい、そんな風に後輩に思ってもらえる医師を目指します。

未来へ

先生の「キャリアプラン」をお寄せください
内容のアップデートもお待ちしています!

先生がどういった経緯を経て救急医という職業を選ばれたのかを
熱いメッセージとともに寄せていただければと思います。
こちらの「キャリアプラン」アンケートフォームよりご投稿ください。

さらに、男女問わず結婚や出産、育児という家庭人としての経験と仕事を
どのようにバランスよくこなしてきたのかなどの体験談も併記いただける方は
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また、内容の修正などをご希望の際はこちらのお問い合わせフォームよりご連絡ください。

先生方の熱き想い、お待ちしております!

公開日:2024年10月30日